没有“经营好以后”这回事。
国企只要不用行政垄断的手段,永远不可能干得过私企,日本人难道就能例外了?
明治政府本来是想搞一些样板企业,建的这些“官营模范工场”,结果除了个别企业以外,大部分严重亏损,得靠政府养着。
1876年因为黄金储备不足废除了之前纸币绑定黄金的规定,1877年西南战争爆发,为了筹措军费猛印纸币,当然带来了严重的通货膨胀,财政支撑不下去了。
到了1880年,明治政府想卖掉这些国企止损了,但问题是它一边想卖,一边还想装逼,颁布了一个非常苛刻的“工場払下概則”,得满足所有条件才能买。根本没人想买。
于是又亏了四年,血都快吐出来了。没办法,打了自己两个嘴巴把之前装的逼全数收起,废除了“概则”,诚心诚意地请民企来接盘。最终除了三池炭矿因为三井和三菱都想要把价格抬了上去,其他的国营企业大都以低廉的价格和长年限的分期付款的优惠卖掉割肉了。
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更学术点的资料有小林正彬著「日本の工業化と官業払下げ--政府と企業」,CiNii上大多数相关论文引用自他的研究。
以下摘自「日本産業史」“近代産業の展開” 作者 山口和雄 等 这个说得简单明了。
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以上のように松方大蔵卿の紙幣整理は所期の成果を納めたのだが、それに伴いわが国経済は前述の松方のことばにもある通り深刻な不況に見舞われ、物価は急落した。
さきにあげた三品目の東京物価をみると十八年には十四年に比べて、米は六円九〇銭に、塩は八〇銭に綿は九円ニ五銭にそれぞれ下がっている。
こうした大不況を通じて、土地を失った農民や倒産した中小商工業者、旧士族が多数現われ、彼らあるいはその家族のうちから、近代産業の発展に必要な労働者が生み出された。
特に貧農の家族から当時の労働者の主力をなす女子労働者が多く提供された。
たとえば、長野県諏訪の平野村(現在の岡谷市)は器械製糸の中心だったが、ここへは明治十四、五年からとなりの伊那方面の女子が多く雇われ、二十年ごろから募集がいちだんと活発になったといわれる。
なお、明治十七年五月、兌換銀行券条例が制定され、翌十八年五月、日本銀行は最初の兌換銀行券を発行した。
紙幣整理と並んでわが国の近代産業発達に重要な役割を果たしたのは、官営鉱山および官営工場の払い下げである。
さきに述べたように明治十年ごろから紙幣の増発に伴って貨幣価値は下がり、財政は窮迫したため、政府にとってはこれまでのように官営の鉱山、工場を維持していくことは次第に重荷になった。
官業の中にはかなりの利益をあげたものもあったが、多くは設備費のわりに収益が少なく、欠損続きのものも相当数あったからである。
また一方、このころまでには、民間でも田口卯吉のように、官業は民間企業の発達を妨げるもので、これを民間に払い下げるべし、と主張するものも現われた。
そこで政府は明治十三年十一月に工場払下概則を公布して官業払い下げの方針をとったのだが、この概則は条件がきびしかったので払い下げはなかなか実現しなかった。
このため十七年十月に概則を廃し、払い下げる場合はそのつど方法を取り決めることとし、十七年ごろから軍事工場・鉄道・通信を除く官業がしだいに民間に払い下げられた。